属性が自分を守ってくれるものだと信じ、その感覚にしがみつけばしがみつくだけ、人は自分の靴に拘泥し、自分の世界狭めていく。
『他者の靴を履く』 エンパシーとシンパシーの解説本
ぼくがこの本の存在を知ったのは、『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』で有名な花田菜々子さんの著書『モヤ対談』でした。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という作品は、イギリスの貧困や格差などの社会問題について触れらているのですが、多様性やいい話として、また、エンパシーについていい面だけを捉えられてしまったのではないかと花田さんは対談で語っていました。
「エンパシーって実はやばいんだぞ」と日本語で議論してくれる人が現れると思っていたけどなかなか現れないので、ブレイディさんがエンパシーについて自分で書こうと思ったそうです。
これだけ、読みたいと思いましたね。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』と比べると、出てくる言葉が難しかったり、文献などを引用していたりと、論文を読んでいるような感じがしました。
めちゃくちゃ深いことが書かれていて勉強になった作品です。
いま文庫化もされているので、ぜひ気になる方は手に取ってみてください。
『他者の靴を履く』 心に残った名言
つまり、加害者にリベンジしているつもりの人たちは、被害者やその家族に自分自身の想像や怒りを投射し過ぎていると言える。他者の靴を履いているつもりが、自分の靴で他者の領域をずかずか歩いているのだ。
本人は「他者の靴を履いているつもり」なんですよね。1番タチが悪い。自分も気をつけようと思いました。
「エンパシーだいじ」論者は、認知的バイアスを外して、考え方を広げと言う。片や「エンパシーはダメ」論者は、対象のスポットライトを絞らずに外して、視野を広げろと言っている。
「外して、広げる」こと。
これからのエンパシーについて考えていく上での、一つのキーワードになりそうだ。
視野を広げる、視座を上げる、俯瞰する。こんな言葉が思い浮かびました。何事もそんな気がしますね。
つまり、自分を誰かや誰かの状況に投射して理解するのではなく、他者を他者としてそのまま知ろうとすること。自分とは違うもの、自分は受け入れられない性質のものでも、他者として存在を認め、その人のことを想像してみること。他社の臭くて汚い靴でも、感情的にならず、理性的に履いてみること。
感情的にならずに理性的に履けることが、そもそも素晴らしい才能な気がしますね。想像力があるから小説を楽しめるのか、小説を読んできたから想像力がるのか、最近考えることがあります。どっちなんでしょう。
感織(エモーショナル・リテラシー)…自分の心の動きや感情を感じ取り、それを認識し、表現する力。感情の読み書き能力。
「感情の筋肉」の強さ。
感織。いい言葉ですね。かなり高度な技術な気がします。
脳内の鏡に他者になった自分を映し出すというのではなく、他者との距離を保ちながら自分の靴を脱いで他者の靴を履いてみる。両者の違いは、「要するに「共同性」っていうのもほどほどであればいいんだな」みたいなバランスの問題ではないように思える。おそらくここで重要なのは、「自分を手離さない」ということだ。
他者の靴を履く際に、自分を手離さないことが大事って、難しいですよね。そもそも手離さない自分を持っていないといけない。
まとめ
この本に書いてあることって、答えがないようなことなんですよね。
数字とかデータとかで、こうすることでより幸せに生きていけます!みたいなことではく、生きていくうえでこういうことって大事なんじゃないかと、感覚のことが書かれているような気がします。
エンパシーという難しい概念的な言葉を「靴を履く」という言葉を用いて読み手がわかりやすくなったところで、社会学や心理学といった複雑内容に踏み込んでいる作品です。
理解するのに時間がはかかるし、1回読んだだけでは自分の身になっているかわかりませんが、とても勉強になる本でした。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んだけど、それ以降ブレイディさんの作品を読んだことがないという人はぜひ読んでみてください。ギャップも含めて楽しめると思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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